由来書によると、新南陽市富田河内(とんだこうち)の神室山(みむろやま)に神が降臨され、これを祀った。
また一説には、豊前国宇佐より御分霊を祀ったとも言われている。
その後、和銅2年(709年)8月に、現地に御鎮座され[江宮(えのみや)」と称した。神仏習合の時代になると真言宗の荘宮寺と習合し「荘寺八幡宮」と呼ばれていた。
明治維新により 神仏分離の時、山崎八幡宮と御社名を改めた。
その間平安時代の大同元年(806年)と江戸時代の宝暦7年(1757年)に再度火災があり、社殿・宝物・古文書等はすべて焼失している。現在の社殿は明治9年(1871年)に再建されたものである。
明治4年に郷社となり、昭和5年には県社に昇格された。

境内の亀の碑文(趺亀ふき)には次のような記録がある。
『古くは社の前は海辺であった。虎の形をした洲があり、これを虎の洲といった。その西には文水(あやのみず)という霊水が湧き、宝亀年間天使が来てその水を汲み、祭りを行ったという歌がある。
「酌みて知る江宮浜の文水清き流れの千代の行末」とあり、鎌倉時代寛元年間、再び天使が来て祭りを行った。
そのときの歌は、
「周防なる江宮浜の虎の洲に藻を刈る海女(あま)の袖やほすらむ」と詠んでいる。
近世では大内義隆の家臣で周防の守護代 陶弘護(すえひろもり)、戦国武将の 陶隆房(すえたかふさ)、晴賢(はるかた)は神前に扁額を寄進し、戦勝を祈願している。

また、毛利元就公ゆかりの石碑の中に、
「洞春公(元就)の安芸に起こるや、使を遣わして以て祈ることしばしなり、兵出でて勝たざるはなし、十州を奄(領)有す、以て冥裕(めいゆう、神仏のご加護)の使事する所となす」
とあり、毛利氏も篤く崇敬し、江戸時代には徳山藩の御祈願所として、歴代藩主が度々社参した。

ふるさとの文化財  青木健作の句碑

「寒月や 干潟に光る いかの甲」
青木健作(1883~1964)は小説家、詩人。
富田村河内に、富田村4代村長 青木利作の三男として生まれた。
大正3年、井本家の養子となり、青木健作はペンネームとなった。
俳号は「兀山人(こつさんじん)」。
東京大学哲学科を卒業後、成田中学、法政大学などで教職を続ける傍ら「ホトトギス」「読売新聞」などに作品を発表。
明治43年発表の「虻(あぶ)」は、夏目漱石に推賞されて、大正2年発刊の「現代文芸叢書」の一冊として収録された。
無花果会(いちじくかい)を主催し、随筆集「椎の実(しいのみ)」、句集「落椎(らくすい)」などを出版。
戦後の富田西小学校歌の作詞者でもある。